町文化財の説明

更新日:2024年03月19日

国指定

1.絹本著色星曼荼羅図(けんぽんちゃくしょく ほしまんだらず)

 星曼荼羅とは平安時代から天変地異や疫病などの災いを払うために行われた星の供養をする時に使用されたものです。北極星や北斗七星などを表した図象となっており、88箇所の77番霊場道隆寺所蔵の星曼荼羅は鎌倉時代に描かれたものとされています。道隆寺境内の妙見社で毎年3月7日と8日に星供養が行われてきています。

2.天霧城跡(あまぎりじょうせき)

 弥谷山から天霧山の尾根に沿って南北朝時代から戦国時代にかけて作られた山城。讃岐の守護であった細川氏に従ってきた香川氏の戦時下の詰城として利用されました。四国の中世山城を代表するもののひとつです。連郭式といった複数の郭が尾根に沿って折り重なって連なる縄張をしています。現在でも石塁や溜井、空堀などの遺構が残っています。

かつて存在した山城天霧城跡がある雄大な天霧山全体を撮影した写真

県指定

1.南鴨念仏踊(みなみがもねんぶつおどり)

 風流(ふりゅう)踊の一種である。雨乞いの念仏踊。南鴨地区にある賀茂(加茂)神社で行われます。起源は道隆寺の理源大師が菅原道真に降雨の祈祷を請われ祈念した結果雨が降り、鴨村の百姓が喜びのために踊り始めたのが、その起こりとされています。当初は綾川町にある滝宮神社まで赴いて踊りを納めていました。拝殿の前に作った円状の舞台で、「なむあみどうや」や「なっぱいどうや」などの念仏を唱えながら踊ります。例年は6年に1回、8月の第4日曜日に開催される。

多度津町にある加茂神社境内で白線で二重に描かれた丸に付けられている印の場所で雨乞いの南鴨念仏踊を踊る人々の写真

2.大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみたきょう)

 南鴨地区にある賀茂(加茂)神社に収められている600巻からなる経典。鎌倉時代に書かれたものとされています。本来は寺院に収められ、転読(経典を回し詠みすること)されるものでしたが、神社では無病息災を願って、大般若経を長持に入れ、それを担いで「大般若経じゃ、六百巻じゃ」と掛け声を上げて町を練り歩く町指定無形民俗文化財「南鴨の大般若経巡行」という神事に使われています。

多度津町南鴨地区にある加茂神社内に全600巻にもなる膨大な長さの大般若波羅蜜多経が木箱に保管され大切に収められている写真
大般若波羅蜜多経を長持ちに入れのぼり旗を掲げながら縦に整列し道路を歩く南鴨の大般若経巡行をおこなう人々の写真

3.絹本著色西谷藤兵衛肖像(けんぽんちゃくしょくにしたにとうべえしょうぞう)

 多度津に入封し、西讃地域を支配した香川氏の支族であり、今の三豊市豊中町岡本にある谷城領主であった西谷藤兵衛の肖像が描かれています。中世の戦国武将の配下の一城主の肖像が残るという非常に珍しいものです。

4.絹本著色西谷藤兵衛夫人図(けんぽんちゃくしょくにしたにとうべえふじんず)

 県指定「西谷藤兵衛肖像」と一対になっている婦人肖像。西谷藤兵衛肖像とあわせて戦国時代の小城主夫妻の肖像図が残存するものとして貴重なものです。

5.佐柳島長崎の埋め墓(さなぎじまながさきのうめばか)

 佐柳島にある2つの集落のうちの1つである長崎浦にある墓。両墓制といわれる死体を埋葬(土葬)し、黒い円礫を敷き詰め、その上に桐の地蔵さんという木製の人形を立てた埋め墓の「サキバカ」「マエバカ」と遺族が参る参り墓「ホンバカ」の2つを持ちます。

多度津町にある佐柳島の長崎浦集落の海岸沿いに存在する埋め墓を遠目のアングルから撮影した写真

6.盛土山古墳(もりつちやまこふん)

 古墳時代中期後半に築造された円墳。墳丘は2段に構築され、2重の周濠を持っています。奥白方にある古墳の中で最大級の大きさ、そして県下の古墳のなかで一番低い標高にある古墳です。古墳時代中期後半頃の多度津を中心とした地域を収めた支配者の墓ではないかと考えられます。円筒埴輪や形象埴輪、大型の勾玉などの玉類、銅鈴や鏡、太刀槍などを出土しています。

天霧山を背景に2段の墳丘2重の周濠を持つ多度津町奥白方最大級の盛土山古墳をやや遠目のアングルから撮影した写真

7.高見八幡宮奉納模型和船(たかみじまはちまんぐうほうのうもけいわせん)

 宝暦5年に高見八幡宮に奉納された北前船として利用されていた弁才船の1/10縮尺の模型です。現在は多度津町立資料館で展示しています。日本遺産の構成文化財にもなっています。

多度津町立資料館に展示されている帆の部分がのれんのような木製の高見八幡宮奉納模型和船の写真

8.高見島龍王宮社叢(たかみじまりゅうおうぐうしゃそう)

 高見島の山頂にある龍王宮を中心にした東西70メートル・南北60メートルの社叢。主な植物はシロダモ。他にはカゴノキ・ヒサカキ・イヌビワ・ヤブニッケイ等がみられます。

高見島龍王宮社叢にある木漏れ日に照らされている木と木の間に縄を垂らした鳥居のような門の写真
木漏れ日が差し込む高見島龍王宮社叢の中に建つしめ縄が飾られた木製の祠の写真

町指定

1.絹本著色法華経曼荼羅図(けんぽんちゃくしょくほけきょうまんだらず)

 南北朝時代の作とされ、法華会の本尊として用いられている曼荼羅図。法華経に説かれている諸仏や菩薩などを円形に配列した構図となっています。

2.絹本著色不動明王立像図(けんぽんちゃくしょくふどうみょうおうりゅうぞうず)

 室町時代の作とされる道隆寺の寺宝のひとつ。全身を赤く彩られた赤不動。

3.新続古今和歌集(しんしょくこきんわかしゅう)

 最後の勅撰和歌集。後花園天皇の命により永享十一年(1439年)に完成したものです。道隆寺に納められてものは翌年の永享十二年に写本されたものです。

4.宿地古墳(しゅくちこふん)

 多度津山の南端部にある古墳時代終末期の円墳。埋葬施設は非常に大きな石材を使用した横穴式石室を持ち、いわゆる巨石墳と呼ばれる種類の古墳になります。宿地古墳の横穴式石室は観音寺市大野原古墳群の平塚古墳や角塚古墳の中間時期の特徴を持っています。現在は墳丘上に宿地神社が鎮座しています。

宿地古墳と彫られた石柱の後ろにある細い開口部およびその上に建つ宿地神社の写真

5.石地蔵(いしじぞう)

 佐柳島長崎浦墓地の薬師堂の中にあります。高さ1.5メートルの大きな地蔵で制作年代は室町時代と推定されています。海中から出現したという伝説を持っています。

柔和なお顔をした大きな石地蔵の左側の小さな地蔵と右側の小さな地蔵および石台に置かれた中くらいの地蔵の写真

6.高見島埋め墓(たかみじまうめばか)

 高見島の浜集落と浦集落に残る墓。両墓制によって死体を埋葬(土葬)する埋め墓「ハカ」・「ボチ」と墓参用の参り墓「セキトウバ」の二つの墓があります。佐柳島に2箇所ある埋め墓とあわせて、古い時代の葬法を知ることができる貴重な資料です。佐柳島にある両墓制とあわせて、本来は参り墓と埋め墓は離れて設置されるが、2つの墓が隣接して存在するといった離島ならではの両墓制の特徴を示している。

砂が敷き詰められ囲いがされた小さな高見島埋め墓とその周りを囲むように建つ墓参用の詣り墓の写真

7.古銭(こせん)

 昭和二十二年(1947年)に賀茂(加茂)神社本殿北側の老松の根元から出土した奈良・平安時代の銭貨です。内容は宋銭・漢の五銖銭・開元通宝・乾元重宝・唐国通宝など。

旧漢字で発掘古銭箱蓋と書かれた箱のふたの左横で布の上に置かれたひもで繋がった古銭が縦にずらっと並べられた写真

8.高見島なもで踊り(たかみじまなもでおどり)

 高見島で行われていた、「ナーモーデー」「ナッパイドウヤ」などという南無阿弥陀仏という念仏が変容した囃子言葉から名付けられた念仏踊の一種。香川県下にある念仏踊のように雨乞いを主とするものではなく、盆の13・14日に行い、帰ってくる先祖の霊を迎えるためのものや鹿島踊り(常陸国鹿島の神人たちが布教の目的を持って各地に流布した踊り)の要素を持った踊りではないかと考えられます。

眉毛やひげを太く書いてたすき掛けをした法被姿で首に小太鼓をぶら下げ両手に鉢を持ち左手は高く掲げ右手は下げ左足を上げて高見島なもで踊りを踊る男性の写真

9.延命地蔵(えんめいじぞう)

 別名「貝殻地蔵」。もともとは堀江浦にあった砂州上にあった地蔵尊に安置されていたとされていますが、その後海中に没し、地元の漁師によって堀江の海中から引き上げられたとされている地蔵です。空海の作とも言われています。

10.金毘羅燈籠(こんぴらどうろう)

 江戸時代後期に隆盛した金毘羅参りに人々が巡った多度津金毘羅街道沿いに設置された常夜灯。現在は本来の場所から移動して、町中に点在しており、その中のいくつかは桃陵公園内に移設されています。日本遺産の構成文化財の一つにもなっています。

町中にある右読みで常夜灯と彫られた石台に置かれた金毘羅燈籠の全体像を写した写真

11.林求馬邸(はやしもとめてい)

 慶応三年(1867年)に建てられた多度津藩家老林求馬の邸宅。幕末期に藩主の避難場所として築かれたとされています。江戸時代後期の武家屋敷の様子を今に残す、貴重な建築物です。毎月1回公開日を設けています。

雲一つない晴天の下そびえ立つ山々を背景に建つ広大な多度津藩家老林求馬邸を遠目のアングルから撮影した写真

12.旧京極氏多度津藩家中屋敷(きゅうきょうごくしたどつはんかちゅうやしき)

 文政八年(1825年)に多度津藩4代藩主高賢の時に、藩の直接経営のため現在の家中を中心にした地域に調練場・馬場・射場・御館・新館・鼓楼・学館(自明館)・堀・門・廊・外門等を設けて、多度津藩の陣屋として開かれていきました。多くがJR工場の敷地になっていますが一部が家中に残り、古い町並みを見ることができます。

瓦屋根に白漆喰塀で木製の門構えの旧京極氏多度津藩家中屋敷のモノクロ写真

13.黒藤山古墳(くろふじやまこふん)

 正確には黒藤山4号墳。白方の黒藤山に複数ある古墳のひとつで、全長約30メートルの古墳時代前期の前方後円墳。当時の白方地区を中心とした地域の支配者層の墓ではないかと考えられます。

14.御産盥山古墳(みたらいやまこふん)

 海岸寺奥の院の西端にある全長約40メートルの古墳時代前期の前方後円墳。円筒埴輪や朝顔形埴輪を出土している。同じく町指定の黒藤山古墳と並び、当時の白方地区を中心とした地域の支配者層の墓ではないかと考えられます。

15.宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 宝篋印塔とは本来、「宝篋印陀羅尼経」という経典を安置する塔であったとされています。南鴨地区にあった法泉寺跡から出土しました。基底部に文安ニ年(1445年)の紀年銘が刻まれています。

法泉寺跡から出土した右から大中小のサイズで置かれた3基の宝篋印塔の写真

16.北前船関係古文書(きたまえぶねかんけいこもんじょ)

 西廻り航路図、往来手形、買目録、航海日誌など、北前船の寄港地として発展した多度津港の内容を知るうえで重要な資料です。江戸時代後期に勝間屋として船問屋や鯛網の網元であった森家と高見島の北前船船主であった日向家の文書です。日本遺産の構成文化財の一つになっています。

上部は2種類下部は3種類の北前船関係古文書の表紙を真上から撮影した写真

17.武田家古文書(たけだけこもんじょ)

 満濃池普請に関すること、多度津藩の酒株に関するもの、庄屋書き上げと明細書、伊能忠敬測量関係のものなどが含まれる武田家所蔵の文書です。

18.佐柳島八幡神社奉納「北前船」模型(さなぎじまはちまんじんじゃほうのう きたまえぶね もけい)

 文政七年(1824年)に海路平安のために八幡神社に奉納された北前船の模型です。現在も八幡神社のなかに納められています。

19.木造薬師如来座像(もくぞうやくしにょらいざぞう)

 賀茂(加茂)神社の神宮寺であった法泉寺の本尊とされているものです。現在は神社内の新薬師堂(南鴨自治公民館)内に祀られています。平安時代末期の作とされています。寄木造。

20.木造釈迦如来座像(もくぞうしゃかにょらいざぞう)

 法泉寺の釈迦堂に祀られていました。現在は賀茂(加茂)神社内の新薬師堂(南鴨自治公民館)内に祀られています。

21.多度津京極藩「時太鼓」(たどつきょうごくはん ときだいこ)

 多度津藩家中の陣屋で用いられていた時刻を告げる太鼓です。明治時代初期まで町民に時刻を告げることに用いられていました。現在は桜川に隣接する須賀金毘羅宮の社殿内に安置されています。

天井の梁にぶら下げられた丸に金の文字が印字された提灯の下および襖に掲げられた幔幕の前に置かれた時太鼓の写真

22.熊手八幡宮高麗犬(くまではちまんぐうこまいぬ)

 白方地区の熊手八幡宮が改築された文明十三年(1481年)に奉納されたとされています。木造の高麗犬(狛犬)で彩色を施した顔が犬のように長く、古い形を残しているようです。現在は熊手八幡宮の門内に祀られています。

23.三井正八幡宮参道及び馬場先の伊予街道(みいしょうはちまんぐうさんどうおよびばばさきのいよかいどう)

 平安時代末期の延久五年(1073年)に道隆寺の裕善によって岩清水八幡から勧請された三井正八幡神社の参道。南海道の甕井駅が付近にあったとされ、後に多度津金毘羅街道のルートになり、伊予街道とこの馬場先で交わりました。

多度津町にある三井正八幡宮の鳥居から遠くに見える随神門越しの社殿の写真

24.冨井家文書(とみいけもんじょ)

 多度津藩裏判方を勤めた冨井泰蔵が記した「泰蔵覚帳」や砲術・兵術・測量・満濃池関係の文書があります。

25.古石塔(こせきとう)

 西白方にある仏母院にある石塔。元々は近くの熊手八幡宮にあり、神仏分離令により、別当寺である仏母院に移設されました。鎌倉時代末期に造られたとされており、石塔両側面に「施入八幡嘉暦元丙寅萼行」という記年がされています。

多度津町西白方の仏母院にある右側の古石塔よりも一回り小さい古石塔とその左横に建てられた白色の案内看板の写真

26.高見島五輪塔(たかみじまごりんとう)

 高見島の高見浜にある五輪塔。室町時代に建立されたものとされています。

墓参用の詣り墓の前にブロック塀で囲われて置かれた高見島五輪塔の左側の四輪塔と複数の石塔の写真

27.高見島宮崎家古文書(たかみじまみやざきけこもんじょ)

 高見島庄屋宮崎平四郎の庄屋文書です。

28.笠屋天満神社子供馬(かさやてんまじんじゃこどもうま)

 庄地区の氏神である天神さんの秋祭りの中で行われる踊りで、古代に讃岐国の国司であった菅原道真が巡見しに笠屋の地に訪れたときに里人が馬を作ってお迎えしたという伝説から、木枠に紙で作った馬の中に入った子供たちが踊りながら行列をくみます。

多度津町庄地区の笠屋天満神社で木枠に紙で作成した子馬を身体に付け手綱を首にかけ笠を被り物憂げな表情をした少年らの写真

29.木谷家史料及び付属書籍(きたにけしりょうおよびふぞくしょせき)

 旧葛原村の大庄屋であった木谷家の村政の記録や覚帳、年貢や田畑、講銀、教育に関しての文書帳簿類です。

30.多度津鳥居(たどつとりい)

 元々は鶴橋にあった多度津金毘羅街道「一の鳥居」。寛政六年(1794年)に雲州松江(現在の島根県松江市)の金毘羅講中の寄進によって建てられました。現在は桃陵公園内に移設されています。寄進者の中には当時の大関である雷電為右衛門の名前もあります。

多度津町にある桃陵公園内に移設されたこんぴら鳥居と彫られた石柱の後ろにある石鳥居の写真
多度津金毘羅鳥居の柱に彫られた建立時の寄進者一覧にある江戸時代の大関雷電為右衛門の名をアップで撮影した写真

31.松本直之の墓碑(まつもとなおゆきのぼひ)

 享和二年(1802年)に多度津に私塾を開いた人物の墓碑。

江戸時代に多度津で私塾を開いた松本直之のやや左に傾いた墓碑のモノクロ写真

32.森長見一族の墓及び森長見の墓碑(もりながみいちぞくはかおよびもりながみのぼひ)

 「国学忘れ貝」を著作した多度津藩小物成奉行を務めた人物とその一族の墓。道隆寺境内にあります。

道隆寺境内にある木製の案内板の右側に建つ木々に覆われた多度津藩小物成奉行森長見の墓碑のモノクロ写真

33.自明館の扁額(じめいかんのへんがく)

 多度津藩の藩校「自明館」に掲げられた扁額です。

かつて多度津藩校自明館に掲げられていた右読みで自明館と彫られた木製の扁額のモノクロ写真

34.乳神(ちちがみ)

 石造りの小祠で祠の中の神像が乳房の形に見えるため乳神と呼ばれています。一年の水の豊かさと豊年を祈るために田の神と水の神の祭場である水口に設置されたものです。

田んぼの前に建立された乳神を祀る石造りの小祠に供えられた二輪の花の写真
田んぼの前に建立された乳神を祀る石造りの小祠の写真

35.奉納題発句集扁額(ほうのうだいほっくしゅうへんがく)

 三井正八幡宮に文政五年(1822年)に奉納された扁額。52句の俳句が記されています。江戸時代後期初頭の化政文化の隆盛した時期のもので、52句のなかには三井郷の俳人が13人名を連ねており、文化的な行為が地方にも広まってきていることを示した貴重なものと考えられます。

三井正八幡宮に奉納された木製の大きな題発句集扁額の下部に三井郷出身の俳人の句には分かりやすくそれぞれの名前を記した紙を貼り付けている写真

36.蔵の本地蔵(ぞうのもとじぞう)

 南鴨地区が荘園だった時代(中世以降)に境界部分に設置された4つの地蔵のうちのひとつです。

赤色のひも付き幔幕の下に供えられた仏花とピンク色の花柄の風車が両端に飾られた後ろに建つ蔵の本地蔵の写真

37.向井原古墳(むかいばらこふん)

 奥白方の天霧山の北端部にある古墳時代後期の円墳。一墳ニ石室という特殊なものであったといわれています。横穴式石室の玄室天井部はドーム型をしており、九州肥後の古墳の特徴を持っています。さらに南下した吉野川流域でも段の塚穴型石室も同様の形状をしており、石室の型式が伝播する途中の地でその影響を受けて造られた古墳ではないかと考えられます。

多度津町奥白方の果樹園内にある向井原古墳の細い開口部の写真

38.石造 六地蔵(いしづくり ろくじぞう)

 六地蔵とは仏教上の六道において衆生の苦現を救うという、六種の地蔵菩薩像のことを指します。江戸時代中期頃から墓地の中に設置されるようになりました。多度津町の石造六地蔵は庄の買地池に放置されていたものを個人が取り上げ、以来保存されていたものを個人の死去後に町に寄付されたものです。もともとは町南部の墓地にあったものとされています。

石造りの小さな祠の中収められた石像の六地蔵の前に供えられた湯飲みに入った飲み物や線香の写真

39.多度津藩藩札版木及び刷台三組(たどつはんはんさつはんぎおよびすりだいさんくみ)

 多度津藩が享保十七年(1732年)に藩札の発行許可を受けて、翌年に発行した際に使用した版木と刷台です。当時の大坂で製作されたものです。

左側は上から大黒天右読みで銀札と書かれ右側は上から松鶴壱匁と書かれた多度津藩札の写真
滑り台のような形をし上部に版木が付いている多度津藩札の刷台三組を縦に並べたモノクロ写真

40.寛政八年塩飽佐柳島屋敷地面図(かんせいはちねんしわくさなぎじまやしきじめんず)

 佐柳島の吉田家が所有していた地面図。大坂奉行所の塩飽島管理のために作成されたものとされています。

41.向山1号古墳出土銀象嵌入鉄刀(むかいやまいちごうふんしゅつどぎんぞうがんいりてっとう)

 古墳時代後期の向山古墳から出土した鉄刀。鍔と刀身に象嵌(鉄に金銀をはめ込んで意匠を施したもの)を施した非常に希少な鉄刀です。

42.ヤットセー踊り及びヤットセー音頭(やっとせーおどりおよびやっとせーおんど)

 白方地区で近世頃から行われている雨乞いや豊作を祈願して行った盆踊りや村の鎮守の杜で唄い踊ったものです。特徴は踊りと「クドキ(唄)」でクドキは日常の出来事をユーモラスに歌いこみ、踊りは全身を使ってリズミカルに踊り、両者の調和が取れた伝統豊かなものです。

43.武田三郎の版木と関係資料(たけださぶろうのはんぎとかんけいしりょう)

 武田三郎(1915~1981)は多度津町を代表する版画家です。また多度津町の近代化の礎を築いた多度津七福神のひとりである武田熊造の孫にあたります。武田三郎の版画は棟方志功にも認められ、全国的な版画展にも出展するほどの作品が多くある。作品を制作していた場所である多度津町や四国をテーマにした作品が多く、また「多度津町広報」表紙なども担当するなど、町ともつながりが深く、その彼の版木とそれに関係する関係資料などを含んだ一括資料です。

多度津町出身の版画家武田三郎の作品文化年間の多度津湊の版画をアップで撮影した写真
左上から青黄色左下黒緑色の武田三郎作文化年間の多度津湊の版木が縦横2枚ずつ並べられた写真

44.南鴨の大般若経巡行(みなみがものだいはんにゃきょうじゅんこう)

 南鴨地区の賀茂(加茂)神社を中心に行われる祭事。県指定の「大般若波羅蜜多経」を担いで「大般若経じゃ~、六百巻じゃ~」と掛け声を上げながら、町中を練り歩くことによって氏子たちの無病息災を願います。通常行われる転読(てんどく)を行わずに、担いで練り歩くことだけ行うのは、他の地域で行われる神事とは異なる珍しいものであるといえます。

加茂神社の鳥居から長持ちに入れた大般若波羅蜜多経を担ぎのぼり旗を掲げ白鉢巻き姿で南鴨の大般若経巡行をおこなう人々の写真

45.旧合田家住宅(島屋)(きゅうごうだけじゅうたく しまや)

明治時代中期から昭和初期にかけて建築された10棟3基の建造物が並ぶ北前船で財を成した多度津七福神「合田家」の邸宅

46.塩飽嶋中明細古今録(しわくとうちゅうめいさいここんろく)

天保9年に様々な文書を一綴りにした写し文書。中世の島支配や近世の勤番所支配や人名による自治、島嶼部の生活の一端を知ることができる資料。

47.上田樹徳関係資料

多度津町堀江出身の書家・篆刻家である上田樹徳の書画・扇面・画帖などである。上田樹徳は幕末頃に多度津藩に仕えた藩士の一人である。しかし彼の本文は明治から大正時代にかけてであり、廃藩置県後は名古屋に書のための遊学をし大書史密道北泉彗徹和尚に師事し、大師流正統第四七代口伝の伝授允可を受けている。明治八年以降多度津の堀江に樹徳書塾を開き人々の素読や手習い、書道を教授し多度津の文化面特に書について大きく貢献している。町内に多くの書画を残しており、多度津町内の近代以降の書道という文化面の礎となった人物であり、多度津の文化史を語るうえで重要である。さらに今回の資料は多度津七福神の一家から出てきたもので、近代以降の商家との交流もうかがえる資料になっており、多度津町の近代化に関わる七福神にも関係していることが分かる町の形成史上でも貴重な資料といえる。

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登録有形文化財

1.山本医院

 大正15年に建てられた木造2階建てモルタル塗りの洋風医院建築。

2.富井家住宅(主屋,新座敷,土蔵,門)

 家中に残る多度津藩陣屋の武家屋敷。文政十一年(1828年)以降の江戸時代末期にかけて建てられた。当時の武士の住宅の形式及び外観を伝えています。

3.JR多度津駅(構内転車台 構内給水塔)

 JR多度津駅内にある戦後の昭和二十五年に作られた転車台と大正二年に作られた給水塔。多度津町が近代化する当時の様子を残したものとなっています。

4.JR多度津工場(職場15号・職場17号・34号,諸舎1号,倉庫4号・7号)

 JR多度津工場内にある建物7棟が対象となっています。昭和初期に建てられたものや移築されたものが多く、職場15号はもともと明治二十一年に建てられたもので、近代化初期の様子を残しています。

備考

文化財の説明文の一部は「多度津町誌-資料編-」から引用しています。

この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会事務局 生涯学習課
〒764-8501
香川県仲多度郡多度津町栄町三丁目3番95号
電話番号:0877-33-0700
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